人生(じんせい)そのものの問(と)い

 日々(ひび)の暮(く)らしの中(なか)で、人間関係(にんげんかんけい)に疲(つか)れた時(とき)、自分(じぶん)や家族(かぞく)が大(おお)きな病気(びょうき)になった時(とき)、身近(みぢか)な方(かた)が亡(な)くなった時(とき)、人生(じんせい)そのものの問(と)いが起(お)こる。いったい何(なん)のために生(い)きているのか。死(し)んだらどうなるのか。

 この問(と)いには、人間(にんげん)の知識(ちしき)は答(こた)えを示(しめ)せず、積(つ)み上(あ)げてきた経験(けいけん)も役(やく)には立(た)たない。

 目(め)の前(まえ)に人生(じんせい)の深(ふか)い闇(やみ)が口(くち)を開(あ)け、不安(ふあん)の中(なか)でたじろぐ時(とき)、阿弥陀如来(あみだにょらい)の願(ねが)いが聞(き)こえてくる。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。

 

 弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明(むみょう)長夜(じょうや)のおほきなるともしびなり

 

 必(かなら)ずあなたを救(すく)いとるという如来(にょらい)の本願(ほんがん)は、煩悩(ぼんのう)の闇(やみ)に惑(まど)う人生(じんせい)の大(おお)いなる灯火(ともしび)となる。この灯火(ともしび)をたよりとする時(とき)、何(なん)のために生(い)きているのか。死(し)んだらどうなるのか。この問(と)いに確(たし)かな答(こた)えが与(あた)えられる。

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