聞(き)くことは信心(しんじん)なり

 母(はは)に抱(いだ)かれて笑(わら)う幼子(おさなご)は、母(はは)の慈(いつく)しみを信(しん)じて疑(うたが)うことがない。慈愛(じあい)に満(み)ちた声(こえ)を聞(き)き、ただその胸(むね)に身(み)をまかせ、大(おお)いなる安心(あんしん)の中(なか)にある。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。

 

 聞其名號(もんごみょうごう)といふは本願(ほんがん)の名號(みょうごう)をきくとのたまへるなり きくといふは本願(ほんがん)をききて疑(うたが)ふこころなきを聞(もん)といふなり またきくといふは信心(しんじん)をあらはす御(み)のりなり

 

 南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)は、かならず救(すく)う。われにまかせよ。との慈愛(じあい)に満(み)ちた如来(にょらい)の喚(よ)び声(ごえ)。この喚(よ)び声(ごえ)をそのまま聞(き)いて疑(うたが)うことがない、それを信心(しんじん)という。

 自分(じぶん)の見方(みかた)をより処(どころ)とし、自分勝手(じぶんかって)な思(おも)いで聞(き)くのであれば、如来(にょらい)の慈愛(じあい)の喚(よ)び声(ごえ)をそのままに聞(き)くことにはならない。

 母(はは)の慈愛(じあい)の思(おも)いが、幼子(おさなご)の安心(あんしん)となるように、如来(にょらい)の喚(よ)び声(ごえ)が、そのまま私(わたくし)たちの信心(しんじん)となる。

 

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