今(いま)ここでの救(すく)い
念仏(ねんぶつ)の教(おし)えにあうものは、いのちを終(お)えてはじめて救(すく)いにあずかるのではない。いま苦(くる)しんでいるこの私(わたくし)に、阿弥陀如来(あみだにょらい)の願(ねが)いは、はたらきかけられている。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。
信心(しんじん)の定(さだ)まるとき往生(おうじょう)また定(さだ)まるなり
信心(しんじん)いただくそのときに、たしかな救(すく)いにあずかる。如来(にょらい)は、悩(なや)み苦(くる)しんでいる私(わたくし)を、そのまま抱(だ)きとめて、決(けっ)して捨(す)てることがない。本願(ほんがん)のはたらきに出(で)あうその時(とき)に、煩悩(ぼんのう)をかかえた私(わたくし)が、必(かなら)ず仏(ほとけ)になる身(み)に定(さだ)まる。
苦(くる)しみ悩(なや)む人生(じんせい)も、如来(にょらい)の慈悲(じひ)に出(で)あうとき、もはや苦悩(くのう)のままではない。阿弥陀如来(あみだにょらい)に抱(いだ)かれて人生(じんせい)を歩(あゆ)み、さとりの世界(せかい)に導(みちび)かれていくこととなる。
まさに今(いま)、ここに至(いた)り届(とど)いている救(すく)い、これが浄土真宗(じょうどしんしゅう)の救(すく)いである。