報恩(ほうおん)の念仏(ねんぶつ)

 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、迷(まよ)いの中(なか)にある私(わたくし)たちを哀(あわ)れみ悲(かな)しまれ、そのままに救(すく)いとるとはたらかれている。浄土真宗(じょうどしんしゅう)の救(すく)いは、この如来(にょらい)のはたらきを信(しん)じる心(こころ)一(ひと)つで定(さだ)まり、念仏(ねんぶつ)は救(すく)われた慶(よろこ)びが声(こえ)となってあらわれ出(で)たものである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。

 ただよくつねに如来(にょらい)の号(みな)を称(しょう)して

 大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩(おん)を報(ほう)ずべしといへり

 如来(にょらい)は私(わたくし)たちを救(すく)いとって見返(みかえ)りを求(もと)めることがない。はかりしれない如来(にょらい)のご恩(おん)は、決(けっ)して返(かえ)すことのできない大(おお)いなる恵(めぐ)みである。私(わたくし)たちは、ただそのご恩(おん)を慶(よろこ)び、感謝(かんしゃ)の思(おも)いを念仏(ねんぶつ)の声(こえ)にあらわすばかりである。これを報恩(ほうおん)の念仏(ねんぶつ)という。

 救(すく)いの慶(よろこ)びを恵(めぐ)まれた者(もの)は、報恩(ほうおん)の思(おも)いから、つねに南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と念仏(ねんぶつ)申(もう)すべきである。

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