浄土(じょうど)への人生(じんせい)
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、煩悩(ぼんのう)によってさとりに至(いた)ることの出来(でき)ない凡夫(ぼんぶ)を哀(あわ)れみ、あらゆる功徳(くどく)を南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)に込(こ)めて私(わたくし)たちにふり向(む)けておられる。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。
臨終一念(りんじゅういちねん)の夕(ゆうべ) 大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す
いのち終(お)えるとき、すみやかに浄土(じょうど)に生(う)まれ、この上(うえ)ないさとりを開(ひら)かせていただく.南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)のはたらきに出(で)あうものは、むなしい迷(まよ)いの生(せい)を二度(にど)とくり返(かえ)すことはない。
如来(にょらい)のはたらきに出(で)あう人生(じんせい)は、無常(むじょう)のいのちを生(い)きながら、かならずさとりの浄土(じょうど)に生(う)まれゆく、むなしく終(おわ)わらぬ人生(じんせい)である。