限(かぎ)りなき光(ひかり)と寿(いのち)の仏(ほとけ)

 阿弥陀如来(あみだにょらい)がさとりを開(ひら)く前(まえ)、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)であったとき、すべての者(もの)を救(すく)うため、限(かぎ)りない光(ひかり)と寿(いのち)をそなえた仏(ほとけ)になろうと誓(ちか)われた。そして果(は)てしない修行(しゅぎょう)の末(すえ)に、その願(ねが)いを成就(じょうじゅ)して、如来(にょらい)となられた。

 阿弥陀(あみだ)とは無量(むりょう)をあらわす。阿弥陀如来(あみだにょらい)は、その限(かぎ)りない光(ひかり)をもって、あらゆる世界(せかい)を照(て)らし、私(わたくし)たちを摂(おさ)め取(と)ってくださる。その限(かぎ)りない寿(いのち)をもって、あらゆる時代(じだい)を貫(つらぬ)き、私(わたくし)たちを救(すく)い取(と)ってくださる。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は仰(おお)せになる。

 

 十方(じっぽう)微塵(みじん)世界(せかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし

  摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる

 

 たとえ私(わたくし)たちがその救(すく)いに背(せ)を向(む)けようとも、摂(おさ)め取(と)って捨(すて)てないと、どこまでもはたらき続(つづ)ける仏(ほとけ)がおられる。その仏(ほとけ)を、阿弥陀如来(あみだにょらい)と申(もう)し上(あ)げるのである。

 

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